プロローグ

1

 暗い空を越えて架かる虹の向こうへ、私は辿り着けるだろうか。
 黒く渦巻く暗雲の中、一頭の白く輝くペガサスにまたがりながら、私は訊ねた。 ペガサスは応えた。『あなたの目指す答えがそこにあるのなら、私はあなたを送り届けます。』 4本の足が空を掻くたびに、背中の筋肉が盛り上がる。さらさらとした、銀色に光るたてがみは、 風を受けて静かになびいていた。金色に光る手綱は、掴んだ私の手をとらえて離さない。 そして、大きく開かれた2つの翼は、羽ばたくたびに銀色の羽を空へまき散らした。 このまま、どこまででも飛んでいける気がした。私はもう一度、訊ねた。 『私の答えが間違っていても、辿り着けるのだろうか。』ペガサスは応えた。 『たとえ間違った答えでも、あなたが信じるのなら、私はあなたを送り届けます。』
 雲の切れ目から一縷の光が溢れた。朝が来た。やがていたるところから朝の光が溢れ始めた。 私はもう眠くなってきた。手綱を握っているのが精一杯だった。だが、そこへ一際大きな建物が姿を現した。 『着きましたよ。』ペガサスは言った。あと少し、あと少しで辿り着く……。 私は手綱から手を離し、背にもたれかかっていた『彼』を支えた。あと少しで……。



2

 キィッ、という鋭い音と共にがくんと体が前に倒れ込みそうになった。 シートベルトを付けていなければ頭がフロントガラスに直撃しているところだった。 前を見ると、制服を着た4〜5歳くらいの男の子が二人、車の前をかけていった。 その後ろから母親らしき女性が片手を上げて怒鳴っているように見えた。 ついで、女性はこちらに向き直り、深々と何度も頭を下げた。
「やれやれ、あぶなく引くところだった。」
運転席をみると、圭一さんは腕を組む形で、ハンドルにもたれかかっていた。
「やあ、起きたかい、お姫様。」
圭一さんはこちらを見て笑った。
「もう、もう少し気をつけて運転してよ。」
「仕方ないだろ、今のは突然飛び出してきたあの子達が悪い。」
女性と男の子二人はすでに道の脇へ退き、前へ歩き始めていた。
「しかし、お姫様はよくお休みになられますね。」
「う、きょ、今日は朝が早かったから。」
今日から大学の秋学期が始まる。圭一さんは実験だとか学会の準備だとかで、夏休み中もよく大学へ赴いていた。 私は約2ヶ月ぶりとなる。いつもは時間が合えば圭一さんの車に同乗させてもらう。 家から大学までは電車で駅3つ分、約40分の距離だが、車なら20分で着く。 しかし、今日は学生が来る前に実験の準備をしなければならないらしく、いつもよりも早く出ていた。 着いたとしても、わたしの受ける授業の開始まで2時間近くあった。 後で電車でいってもよかったのだが、今日は一緒に行きたかった。久しぶりに圭一さんとドライブをしたかったからだ。 なのに、わたしは寝てしまった。おまけに夢まで……。
「夢……」
「え?」と、圭一さんは応えた。
「夢、見てた……」
「そんなに熟睡してたのか。」
圭一さんは鼻で笑った。けど、どんな夢だっただろう。見ていたことは覚えているのに、内容までは思い出せない。 けど、夢なんてそんなものだ。わたしは夢が好きだ。現実には起こらないことでも、夢の中ならできる。 大きなお城のお姫様になったり、人魚となって深海を泳ぎ回ったり、鳥になって空を飛んだり。 だけど、記憶に残らないようでは、見てもうれしくもなんともない。 そんな夢を見るくらいなら、圭一さんとおしゃべりをしていたかった。
 「研究室まで一緒に行ってもいい?」
「悪いな、今日はちょっと危険な薬品を扱うから、なるべく一人でやりたいんだ。」
車は既に大学の敷地内に入っていた。二人で居られる時間ももう終わりだった。  圭一さんはいつもの場所へ車を停め、エンジンを切った。
「なんなら、車の中で寝てるか?」
「ううん、いい。」
わたし達は車を降り、圭一さんは西側、研究室へ、わたしは北へ、講義室へ向かった。

 まだ早すぎるため、人はまばらだった。わたしの通う大学は総合大学で、地方にも付属高校が多くあるため、 色々なところからやってくる。そしてその人数も半端ではなかった。大神災で沢山の子供も命を失ったが、 ここへ来るとそれが嘘のように、人でごった返す。それが今は、部活動やサークルの人たちがわずかに居るだけで、 大学はひっそりと静まりかえっている。わたしは講義室のある校舎を見上げた。 それは大学の敷地内でももっとも高台にあり、東西に延びるその姿は雄大さを感じさせた。 もう何度も通った坂道をゆっくりと歩いていく。そして、歩きながら、わたしはいつも、なぜ自分が大学に通うのか考えてしまう。
 圭一さんから大学へ勧められなければ、わたしは大学へ行かなかっただろうか。 自分がここで何を学び、何を求めるのか、まだよく分からないでいる。 文芸学科に入ったのも、単に自分が物語や小説が好きだったからだ。 圭一さんは、「自分の好きなものの能力を伸ばすのが一番いいよ」といい、この学科に入るのには賛成してくれた。 けど、自分はそれでいいのかわからない。わたしは今、一体何を望めばいいのだろうか。

3

 教室で、持ってきていた小説を読んでいると、にわかに辺りが騒がしくなってきたような気がした。 時計をみると、9時20分。講義開始まであと10分だった。本を読み出すと我を忘れて没頭してしまうが、 今日にしてみればあっという間に2時間たってしまったことになる。自分でも呆れるほどだった。
「遥歩……。」
隣から小さく、消え入りそうな声が聞こえてきた。みると、凛ちゃんが立っていた。
「おはよう。」
わたしは笑って声を掛けた。凛ちゃんも「おはよう」と、これまた消え入りそうな声で言って、隣に腰掛けた。
「久しぶりだね。」
「うん。会いたかった。」
凛ちゃんはわたしに対しては気兼ねなく言いたいことを言ってくれる気がした。 今の「会いたかった」も素直な気持ちの表れなのだろう。そんなところが、彼女のかわいいところだった。
柳本凛は、わたしが大学へ入って初めて話をし、初めて友達になった子だった。初めて会ったときも、 今みたいに物静かで、いるのかいないのか分からない子だった。初めはなんだか不気味に感じたが、 慣れるとこれが彼女の個性だということがよく分かるようになり、かえって接しやすい性格だと気づいた。 見た目はまだ幼い少女のようだった。わたしより背は10センチほど小さく、それは周りから見ても小さいほうだった。 だが、それとは反して顔にはどこか大人びたものが感じられ、着ている服も艶やかものではなく、清楚な感じが受けられるものだった。
「葉っぱ、綺麗。」
凛ちゃんの言動には突拍子のないものが多い。わたしが「葉っぱ?」と聞き返すと、 凛ちゃんは窓の外の木を指さした。わたしは「ああ」と納得した。 来るときは物思いにふけっていて気づかなかったが、木々は徐々に赤みを帯びた葉を纏い、 秋の訪れを告げていた。あと半月もすれば、坂道の両側に植えられたには真っ赤な紅葉のドレスが見られる。 それがあまりに美しいので、大学内で花見をする学生も、去年は多々見られた。 ただし、警備員のおじさんが終始見回りをし、飲酒していないかどうか厳しくチェックしていた。
 そして、赤いドレスを脱ぎ捨てると、辺りには凩(こがらし)が吹き、一気に冬の訪れを感じさせる。 わたしは冬があまり好きではなかった。冬になるとほとんどの草木は葉を散らし、 動物は冬眠のためにわたし達の前から姿を消す。 秋までとは違って、世界が終わりを告げたかのような、そんな寂しさを感じる。 そして、長い長い冬は、時に雪を降らせ、時に冷たい風でわたし達を苦しめる。 まるでわたし達をこの世界から追い出そうとしているようだ。冬には他の季節にはない、静かな怖さがあると思う。 長い冬を越えれば、また世界には光が戻り、木々は踊りながら花を咲かせ、人も新たな年の旅立ちを迎える。 わたしももう何度も、春を迎えた。春を迎えるたびに、心のどこかで安心していた。 今年もまた冬がやって来る。今年は冬を越せるだろうか。次の春を迎えられるだろうか……。
 凛ちゃんに指で突かれ、わたしははっとした。窓の外を眺めながらぼうっとしていた間に、 既に始業のチャイムがなり、先生が黒板の前に立っていた。
 まだ、秋が始まったばかりだ。

第一話